「……北浦さん」
それまで沈黙を守っていた幸成が前に出た。
「もう今の酒田に未練はないのかい?」
「あります」
北浦は即答した。
「だから、せめて少しでもこの目に焼きつけておこうと、昨日今日と街を回りました。でも、それでもまだ、未練はあります」
「そうかい。そうだよね。でも大丈夫さ」
幸成は笑って、北浦の肩を叩いた。
「たとえ、どんな時代でも、この街はこの街さ。あんたが生まれるよりもっと前に辿り着いたとしても、うんと未来へ行って、もう酒田って名前が失われてたとしても……時間は繋がってるんだろ?」
「……そうですね、ありがとうございます。それじゃあ、僕はもう行きます」
「え? もう、ですか?」
澪は驚いて声を上げた。
「なんの用意もなくですか? 手ぶらみたいなものじゃないですか?」
「ここに」
と、北浦は背中のリュックを見せた。
「必要最低限のものは入っています。替えの下着くらいですが」
「そんなもので……そうだ、田辺さん!」
「はい」「なに」
と、親子ふたりが揃って返事をした。
「田辺さん! あぁ、どっちの田辺さんでもいいですけど、なにか持ってないんですか? そう、金目のものとか。幸成さん、不動産の権利書とか、そういうのでもいいですから。なにか北浦さんの役に立つものを……」
「持ってないよ、そんなの」
幸成が呆れ顔で答えた。
「だから大丈夫ですよ、風見さん」北浦が微笑んだ。「どこに辿り着いても、また頼りになる、素敵な人たちに出会えると思うんです。この酒田でそうだったように」
「……わかりました。でも、どうやって時穴のところまで行くんですか? 時穴の話、私、今ひとつわからなくて。望んだところに現れるような話でしたけど、それでも津軽海峡のどこかまでは行かないとダメなんですよね?」
「そうです。ナミとともに時間を超えた時はそうでした。でも……」
北浦は掌に載せた刻磁石を突き出した。
「この刻磁石は持つ者の望みを叶えてくれるはずです。……ほら」
北浦は刻磁石を持つ手を川……新井田川へ向かって大きく伸ばした。すると、その上流、県道353号が架かった向こうから、なにか大きな白い壁のようなものが近づいてくるのが見えた。
「……!」
それを認識した瞬間、澪の右の掌が突然、熱を帯びた。だが、彼女はそれを不安に感じなかった。
それは、これまでに感じたことのない、とても優しい温もりだったからだ。
やがて、〝大きな白い壁〟の正体が明らかになった。何反もの布が縫い合わされた、大きな帆だった。それは穏やかな風を受けて、ゆっくりと川を下ってくる。
北前船……弁財船だ。
幻か、現実、か。
帆を張った帆柱は県道353号をすり抜けるようにして、澪たちの前で静かに停船した。
澪は田辺親子の顔を見た。ふたりも澪の顔を見ていた。少なくとも、彼らにもこの光景が目に映っているのは確かだ。
だが、これはなんだろう。
──幻か、現実、か。
だが、どちらにせよ、それは立派な船だった。澪が青森で見てきた「みちのく丸」にも負けない威容だ。堂々たる千石船だ。
船腹を見てみると、そこに墨痕鮮やかに「星辰丸」と記された船額が掲げられていた。
「星辰丸……北浦さんの……誠太郎の船」
これが、あの星辰丸。
澪の心が激しく震えた。
だが、本物の星辰丸は、誠太郎の仲間たちによって、津軽海峡で沈められたはずだ。
今、見ているこの船は、刻磁石が生み出した幻なのか、それとも過去から時を超えて甦り、主である北浦を迎えにきたのか。
澪にはわからない。
誰にもわからない。
だが、北浦にはわかっているのだろう。
星辰丸を見上げて、力強くうなずいた。
「風見さん、これでお別れです。
──僕は昔、船でたくさんの場所を回りました。どこも栄えていて賑やかで、素晴らしい土地ばかりでした。その同じところを、刻磁石の針を探すために、また訪ねました」
「……はい」
「でも、多くの場所で、昔の繁栄は失われていました。あなたが見た通りです」
「……はい」
澪はまたうなずいた。
これが北浦とかわす、最後の会話だとわかっていた。短い返事でも、思わず力が籠もる。
「でも……」
北浦が言った。
「どの街もまだ」
澪が言った。
「──生きている」
ふたりの声が合わさった時、北浦の姿は澪の前から消えていた。
──彼は星辰丸の甲板に立っていた。
ちょうど澪と視線が合う高さにいた。
「形を変えても」「形を変えても」
北浦と澪、ふたりの声は……心までひとつだった。
だから、言葉が重なっていた。
この掌が熱を帯びている間は、そうなのだ。と、澪は確信していた。
「人がいて生きている」「人がいて生きている」
「過去と今と未来は繋がっている」「過去と今と未来は繋がっている」
「だから!」
北浦が叫び、
「だから!」
澪も叫んだ。
「未来へ行くのは不安じゃない」
──北浦の声だけが響いた。
「そうです。僕はきっと未来へ行くと思います。だって。
船は未来へ進むものだから」
──星辰丸がゆっくりと滑り出した。
北浦を乗せた星辰丸は川を下り、酒田港を出て、夜の海へと船出していった。
その姿を、澪は田辺親子と肩を並べ、ずっと見送っていた。やがて星辰丸は闇に溶けるように見えなくなった。
澪の掌の温もりは、すでに冷めていた。
立ち尽くす彼女の耳に、遠くからお囃子の響きが聞こえていた。
──酒田まつりは、まだ終わっていなかった。
『小説KITAMAE』終わり